下界の暑さが嘘のようだった。
「うへへ、極楽極楽」
ぱたぱたと仰ぐ必要すらない。清涼な風が吹き、肌の熱を奪っていく。
さすが避暑地として名高いだけはある。昔からの別荘が立ち並ぶこの辺りは、クーラーなんて人工の涼風製造機なんてなくても、じゅーぶん過ごし易い適温を提供してくれるのだ。
窓に見えるのは目に嬉しい新緑の色だ。
聞けば近くに温泉もあるのだとか。
これぞまさに天国というもんだな、と史緒さんは思う。
「ほら、来て良かったでしょう?史緒さんが少しでも快適な環境で過ごせるよう、僕は心を砕いて・・・」
そんな史緒さんに一臣殿下が何か言っていたが、爽やかに聞き流すことにした。
史緒さんの特殊な耳は都合の悪いものをシャットアウトする機能がついている。
(ど〜せ原稿に詰まったんだろ〜がよ)
史緒さんは身も蓋もないことを思いながら、だらだらとソファー(勿論こいつも高級でそれはそれは素晴らしいもんである。根が庶民な史緒さんなら絶対買いそうにない代物だ)で転がっていた。
傍らで相変わらず何かくどくどといっている殿下。
・・・・・・平和でのどかな光景だった。そのときまでは。
――史緒さんがこの別荘に来た経緯はこんな感じだった。
「取材をかねて旅行に行こうと思うんですが、史緒さんも一緒にきませんか?」
暑さでへばっている史緒さんの耳に飛び込んできたのは、ここ数日缶詰になっていたはずの一臣さんの一言だった。
司城家はオカネモチの家なので、クーラーぐらいついていそうなものだが、ああいう便利なものは一長一短で、広い広い家を冷やすには無駄に金がかかる。
貧乏性の史緒さんは、それがどうにも我慢できず、結果クーラーをつけないで暮らしているのだった。
結果的に暑さでばてているのだから、自業自得といえなくもない。
「旅行っつったって今の時期はどこも宿は一杯だぞ?」
はしたなくも少しでも冷たい部分を探して床に腹ばいになっていた史緒さんは、そんなことを言いながら一臣さんを仰ぎ見た。
「今から探しても見つかるかどうかだと思うが」
しかも、値段が又馬鹿お高いのだ。
史緒さんも旅行は嫌いじゃないのだが、形のないものに高い金を出すのは少し抵抗があった。
「旅行に行くなら前もって予約しておかないとな」
そんな史緒さんの訳知り顔に、一臣さんは微笑んだ。
「宿ではないですが、別荘がありますよ」
「別荘?!」
「ええ、有名な避暑地にいくつか司城家所有のものがあったはずです」
いくつか。
つまり複数ということか。
司城家は由緒正しい上流階級のお家なので、別荘なんてものを持っているのだ。それも、いくつも。
さすが金持ちは違う。
史緒さんはにわかお嬢様なので、そのスケールに時々ついていけないこともしばしばだ。
生粋のお坊ちゃんの一臣殿下は根がびんぼにんの史緒さんの心理など露知らず、話を進めていく。
「そのうちの別荘の一つを今回は利用しようと思っています。美味しい地の物の料理も出ますし、どうですか?そうそう、近くに温泉もありますよ」
んまいめし。温泉。
史緒さんは美味しい言葉にすぐ釣られた。
がばりと史緒さんは起き上がると、
「お兄様、史緒はぜひついていきたいと思いますわ」
今までごろごろ床に転がっていたことなど微塵も感じさせないかのように淑やかに微笑んで、兄上相手に巨大な猫を被って賛同の声を上げた。手はゴマすりの手だ。
「現金ですね」
一臣さんは呆れたようにため息を吐いたが、史緒さんは動じずにこにこと微笑み続ける。
「まぁ、いいでしょう。取材旅行を兼ねてますので、一応3泊くらいの予定ですけれど、向こうに着替えは揃えておきますので荷物はそんなに大きくしないでいいですよ。その代わりすぐ用意しておいてくださいね」
今日の夕方にでも出発しますよ、と一臣殿下はそう告げて去っていった。
その日の夕方とは随分急な話だが、史緒さんはなんとな〜く理由がわかった気がした。
自宅のFAXがピロピロさっきから成りっぱなしなのだ。
ベーベーとFAXが吐き出す紙には先ほどから原稿の催促のメッセージしか書かれていない。
音声通話のできる普通の電話のジャックは既に引っこ抜かれている。
(つまりは、取材旅行って名目で逃げ出す気まんまんだな)
史緒さんの兄さは小説家だ。それも売れっ子の。
締め切り前になると、優雅な一臣殿下は日ごとに憔悴し、酷いと幽鬼のようになる。
先ほどの一臣さんも、そういえばだいぶやつれかけていた。
暫く缶詰になってみたが、原稿が進まないから取材旅行と称してトンズラしようというのだろう。
本来ならば、それを阻止してやらなければ編集さんが泣くのだろうが、
(ここでやつれた兄を気遣って、あえて取材旅行に背を押してやるのも麗しい兄妹愛ってやつだな!)
・・・・・・史緒さんは自分が涼しいところでだらけたいが為に、ウツクしい建前で自分を騙そうとしている。
兄の為、といっていても自分のため。
しかし、そこには見ないふり。
史緒さんは自分を騙しきったまま、その日の夕方司城家お抱えの運転手の運転するお車で、涼しい涼しい別荘地へ一臣さんと共に旅立ったのだった。
――かくて羊は自分から狼の目の前に飛び出した。
まだまだごちゃごちゃ言っている――と思っていた一臣さんの顔が思いもかけず近くまで迫っていてぎょっとしたのは史緒さんが別荘についてごろごろし始めてからかなりたってからのことである。
つまり、史緒さんはそれだけの時間一臣さんを放って自分の世界に浸っていたのだ。
「に、兄ちゃん?」
いつの間に傍に来ていたというのだろう?
史緒さんは状況が把握できず戸惑っていた。
「史緒さん、僕がここに来た理由を覚えていますか?」
「勿論。取材旅行だろ?」
「そうです」
一臣さん、だからどうしてそんなに近づいてくるのかっ!
史緒さんは何か不穏なものを感じて、少し後じさりした。
「史緒さんは兄思いのよい子ですよね?」
「ま、まあ・・・・・・」
史緒さんはごにょごにょと口の中でお茶を濁した。
兄思いでないとは言わないが、しかしここで「うん」と答えることも「いんや」と答えることもなんだか憚られた。
「取材に協力してくれますよね?」
「まあ、私にできる範囲なら・・・・・・」
それくらいは、と史緒さんはウカウカと頷いた。
ゆめゆめ相手の話はきちんと最後まで聞いてから答えるべし。
――気がついたら、史緒さんの体の両脇を一臣さんの腕が挟み込むようにしていた。
だから、顔が近い近い近い。近いッたら!
「ちょ、ちょっと待つだ!まてっ!またんかいっ!この距離は危険だ!」
ボーイミーツアガールにも程がある。
兄妹としては危険すぎる体制ではないかい?
「どうしてです?」
「いや、どうしてって」
どうしたもこうしたも。
「取材に協力してくれるというお話でしょう?」
「その話とこの体勢とどういう関係が・・・・・・」
あるというのだ。
「ですから、取材です」
一臣さんは史緒さんの拒絶を見えないかのように振舞った。
「取材?」
まてまて。こんなに近い距離をとらねば成らないほどのナニがあるというのだ。
待てよ?
「わかった。次の話は、恋愛モノなんだな?」
史緒さんはひらめいた、と手を打った。
しかし一臣さんは違います、と首を振る。
じゃ、なんなんだ?
「官能小説です」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「ま、ま。まてっ!冷静になれ、兄ちゃん!私と貴方は兄妹ってやつでだな!」
「・・・・・・血は、繋がってはいませんでしたけどね」
ぽつり、と一臣さんが呟いた。
史緒さんの心に、その呟きは染みた。
――離れ離れの兄妹として再会したはずの彼らは、実は血のつながりがなかったなんてことがわかったのはつい最近のことだった。
史緒さんもそのことは忘れていない。
忘れられるほど昔のことでもなかったし、随分とそれは衝撃的なことだったのだ。
一臣さんはもう少し前から知っていたらしい。
でも、史緒さんの気持ちを考えて黙っていたらしいのだ。
史緒さんから血の繋がりのある「兄」がいなくなってしまえば、史緒さんは天涯孤独になってしまうから。
言うか言うまいかずぅっと悩んでいたと後で聞いた。
史緒さんが一臣さんの部屋から、好奇心で宝探しという名のエロ本探しなんてしなければ、きっとまだ知らなかったかもしれない。
コレに懲りて、人の部屋を勝手に荒らすなんてことはもうするまいと決めた。
その一件はすぐさまばれて、こっ酷く叱られると同時に、血の繋がりのない事実を改めて知らされたけれど、一臣さんが
『史緒さんはここに居てください』
そういってくれたから、史緒さんは司城家にとどまっていたのだ。
何事もなかったかのように、そのことには触れずに。
まさか、ここでその話を持ち出されることになるとは思わなかった。
「・・・・・・で、でも・・・」
「――まあ、本当は、貴女に無理強いしたいワケではないんです。でも、こうしなければ貴女は向き直ってくれそうにありませんでしたから」
これなら、逃げられないでしょう?
一臣さんはそう言って小さく苦笑した。
「本音を聞かせてくれませんか?」
「本音・・・・・・?」
「ええ、血が繋がっていないとわかった今も、僕ときみは兄妹として暮らしていますが、本当はどう思ってるんです?」
「え・・・・・・」
「本当に僕のことを"兄"と思っていますか?それとも"家族"と思ってくれていますか?」
その言葉にどう違いがあるというのだろう。
史緒さんには上手く意味が飲み込めなかった。
「兄としか思えないならば、僕は"兄"という生き物に徹しましょう。でも、もし、"家族"と思ってくれているのならば・・・・・・」
「ならば?」
「伴侶として見れませんか?」
「は、はんりょ?」
ハンリョってなんだ?
お勉強のできる史緒さんだったが、現在は頭が思考停止しているため、上手く漢字に変換してくれなかった。
ハンリョ?ハンリョ、どういう意味だっけ?
「夫婦になれませんか、という意味ですが」
意味は知っていた。しかし史緒さんの頭はまだ思考停止が解除されていないため、理解が遅かった。
「・・・・・・嫌ですか?」
一臣さんは雨に打たれた子犬のような眼差しで史緒さんを見た。
(そういう目をするのは卑怯ではないかいっ!?)
史緒さんは小動物の縋るような眼差しに弱かった。
ううっ!
だからっ!
それは・・・・・・・!
「嫌じゃない・・・けども!」
「けども?・・・・・僕は史緒さんと一緒にいると楽しいですよ。でも、きみと僕は本当は兄妹なワケではない。僕だけが知っているのならば良かった。でも、きみもその事実を知ってしまった。僕はね、怖くなったんです」
「怖くなった・・・?」
「貴女は兄妹だと思ったから、僕についてきたんでしょう?でも、実は兄妹ではなかった。僕はきみと一緒にずっといられる理由が欲しくなったんです。僕とずっと一緒にいてください、と望むのは我侭だとはわかっています。でも、できれば叶えたい。史緒さんはどうですか?」
「どうって・・・」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど・・・・・・」
そう、嫌ではない。
でも、だからといって意識をそう簡単に切り替えられるほど史緒さんは器用でもない。
「男として見られないからですか?一生見られそうにありませんか?」
「そんなことは・・・」
「男として見られるようになったら、考えてくれますか?」
真剣な眼差しで、見つめられれば史緒さんも一応乙女の端くれだ。
ぐらりと揺れないわけでもない。
「・・・・・・うん」
結局、史緒さんは頷いて、そして・・・・
「って、ちょっと待て!だから、なんでさっきより近くなるだっ!」
「史緒さんが男として僕を見られるようになれば考えてくれるみたいなので、頑張ってみようかと」
これくらいしないと、史緒さんは自覚してくれそうにありませんし、と一臣さんは呟いた。
「大丈夫、最終的に合意になれば犯罪じゃありませんから」
安心してくださいね、という言葉が耳元で囁かれて、そのまま甘く食まれる。
うひゃーーーと珍妙な叫び声が史緒さんの口から漏れたのを皮切りに、静かな静かな別荘はやがて甘い雰囲気にどうにか包まれていった。
全てが済んで。
いろんな意味でヨレヨレになった史緒さんは億劫そうに体を起こして、傍らの一臣殿下にふと思いついた疑問を投げかけた。
「そ・・・そういや、この別荘。なんで人がいなかったんだ?確か。んまいメシとか言ってたような。ま、まさか嘘をついたのか?」
「ああ、あれですか。嘘じゃありませんよ。ただ、管理を任せている人は明日の朝くることになってるんですよ。つまり、今晩は僕と史緒さん二人きりですね」
さて、明日のご飯を美味しく食べられるようにもう一働きしましょうか。
微笑む殿下に殺意が沸いたが、史緒さんはヨレヨレだったので逆らえず、一臣殿下にいいようにされたのだった。
――さてさて、一臣殿下はどこまで計画的犯行だったのか。
狼の考えは、迷える子羊には見通すことができず、謎のままなのだった。
あとがき
笑う大天使、司城家の作家兄×秀才妹です。
笑う大天使の捏造義兄妹オチ。
前回の続きではありませんが、どうやって文緒さんが手に落ちたか妄想してみました。。
原作ファンの方で、これはありえないって方は爽やかにスルーお願いします。あくまで私の妄想です。